かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

150|何かを忘れようがなんとかはなってそれも忘れられて過ぎ去るのだけれどね

自分のコミュニケーションに大きく影響しているシンボリックな存在っているのではないだろうか。

 

「対とあるあの人用のコミュニケーション」が、いつの間にか汎化してしまっているというような事態。

 

あの人を回避するための作法が、常になってしまって、いつもそのような角度の言い回しになってしまうというような。

 

誰かを見てそう思ったのだけれど、自分もそうだろうなあ、と思う。

 

ある何かを回避したり、叶えたりするためのコミュニケーション作法をとっているのだと思うんだよね。ただ、それの醜いのは、概ね自分を擁護するためのものでしかないってところなんだよね。

 

そのシェルターの外では、被害甚大なんてこともある。大人になるほど、その作法にはキレがかかってきついってこともあるんじゃないかな。

 

まあ、こんなの突き詰めても実態は分かり得ないので、意味はない。単にそう思っただけだ。それくらい、そのシンボリックな相手に執拗だってことだ。怨念というか、因縁というか、恨みだかなんだか。

 

総じてこの手の話で大事なことは、その背後にコントロール性があるかどうかではないか、と思う。

 

ああ、「論理で動かそう」ってなると、まあ、とにかくきついよってことなんだよね。感情を抑えて動かなきゃいけないからね。なんで、そんなみんな苦しんでんのかってよくわからないけれど。

 

まあ、どいつもこいつも己を守る正義で生きているわけよね。ピュアに相手を思うなんてことはできるのかなあ。

 

それは、「議論の余地をもつ」ということなのだろうな。相手の余白を持つこと。なんかは起こる。そりゃ、しゃーない。他者に対しては、感情をケアしながら先に進める人になりたいな。