とんでもなく焦る。石川晋さんが、再三教師には「書く力」がいる。とおっしゃっているが、原因はそれなのではないかと思う。
思いつかない。力がない。何よりも文章力がない(今頃何を言ってんだ)。こうして、改めて業務に支障をきたしそうになってから、コトの重大さに気がつく。
着想はあるのかもしれないとして、紡げない。紡げないなら、表現できていないし、それは伝わらないということだ。残念すぎる。苦しい。
ここまでくると、そもそもの思いがないのではないかと思えてきて、それもまた辛い。
自分の無力さというか、無能さ、また心のなさに全身から力が抜ける。自分は一体何者なのから何なのか、この一年は何なのか。再びそんなことを思わされる。
疲れているってことなのだろうか。頭が回らない。気がそっちに向かない。「仕事なのに?!」、ある力は注いでいるが、実が伴わない。つまり「感情労働」ができていないのだとも思った。
「感情労働」について語られているこの本に目を通したい。こういう時、自分は、それなりに自然なことですよとか、そう思うのも無理ないですよとか、それほど異常ではないという声を求める。私は、情けのないものとして、子どもたちの前に立つことをひどく恐れているのだと分かる。
帰り道。
いくらか楽だ。
文章についてのケアの言葉が入ったからだなあ。反対に一人でムジナに入っているだけで、何かとか、誰かとかのそのうちのネガティヴなものと一緒に自分を勝手に入れてしまっているだけで、そこまで悲嘆することもないのかもしれない。「自分を卑下しすぎないこと」、これも今年大切にしたいなあ。
そして、子どもたち。
陰でやられんだよなあ。バカにされた気分だし、バカにされてんだろうなあ。という、また卑下。人間である方へという願い。
昨日、また、子どもから手紙が届く。本当にすごい子だ。元気がない時知らせが来る。それは同時に、向こうもそうなのかもしれない。運動会を観にいった後は、「元気がなかったのではないか?大丈夫か?」と来た。それは、向こうものはずだ。
その流れで、前任校の人に連絡を取る。ここでも励まされる。子どもから始まる、温かみの循環。「ここまで来たら気合と根性」だと。
そうかもしれない。
手紙を書かないと。