かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「篠原涼子」状態

一夜明けて。

 

「恋しさと せつなさと 心強さと」


篠原涼子 with t.komuro - 恋しさと せつなさと 心強さと

 

この言葉の意味もよく分からないまま小室進行(Am-F-G-C)に浸っていた若い自分。

 

今日になって実感した。

 

卒業式とは、いろいろな気持ちが炸裂する時間である。

肯定と否定と

感謝と謝りと

エールとブーイングと

歓びと悲しみと

愛しさと切なさと

ふがいなさと心強さと

 

たとえば25人いたら、25通りの反応を喰らうことになる。

ダイレクトに。通知表である。なんて虚しいのか。

自分の見え方に違いがあるという当然の結果を受け取る。

 

今年は57%の反応だった。昨年は53%。そんなの%にしたって仕方ないのだけれど。

ちょうど、今、自分が小学校を卒業した時のことを思い出した。

 

先生と写真を撮りたいという思いがあったかなかったか。

でも、その気持ちを湧き上がらせなかったのを覚えている。

つまり、どちらかというと、子どもたちから好かれていなかったということである。

別に好かれるとか好かれないとかはどうでもいいとしてね。

 

ああ、そうか。そういう時があるんだろうな。そういう時期にいるのだろうなと思うことにしよう。

5回以上6年生をやっているあの人ですら、そういう時があったのだ。

それを忘れてはいけない。身近に答えがあったじゃないか。

そうして次に進んでいくんだよね。

 

たぶん、この世界で大切なことは、散々丸つけをした後で、それでも現時点で自分を正解だったことにして、また次のテストを受けるやる気を出すことなのだろうな。

 

良かったことだけ思い出して。

 

これだな。


アンパンマン 歌 【 アンパンマン体操 】 ダンス ショー

 

そして、今年を教訓に変わろう。一生思い出すような、大切な一年だったことに違いないから。

 

ムカついたのは。

同僚性のなさ

見通しのなさ

教えてくれなさ

語気の強さ

冷たさ

できないと見られること

差別性

平気で寂しい思いをさせてくること

 

ただ、人間だから。そういうのはあるよな、と思って生きていこう。誰にでもある差別性。潜む邪鬼。自分にも当然のごとくそれがあることを忘れないで、生きて行こう。

 

 

どう足掻いても、困り感のある子への眼差しが豊かすぎるのだ。反省。メジャーにいる彼らも、日向にいる彼らも、不安な現代を生きる困りのある彼らなのだ。私はそこに斜陽で切り込んでいるのだろうか。どうにか、明るい子を明るくさせてあげられたらいいのに、と思う。陰キャだの陽キャだのっていうのがあるのかもしれない。それが高学年では露呈するかな。それを技術で補っていかなくちゃいけないんだろうな、本当は。

 

悔しさでだけ。涙が出る状態だった。

けれども。最後には、それも和らいだ。

 

清々しいというやつ。せいせいした。ではなく、すがすがしい。それが救いである。

 

それだけ、最後の子どもたちの姿で、私の悔いをなくしてもらえたというイメージ。

 

有り難い。ありがとう。本当にすみません。申し訳ない。お陰様。ありがとう。

 

反省すべきことはいくらでもあるだろうなと思う。けれど、よく走ったと思う。走り切ること。その目標は達成できたね。できた。

 

フルマラソンを走ったら、とりあえず走ったことにケアをするはずだ。お疲れ様となるはずだ。そういうイメージ。記録が出なかったとしてもね。そうやって走った。走り切った。ありがとう。それをあまり大っぴらに労ってもらえないって痛みがあるけれど。ね、自分はそう冷たくないようにいよう。

 

みんな「自分なら」って思っている。もっとやれるとか。そういうことではない。組織としてそういう配置で、個人的な仕事ではなく、チームとしてベストが尽くせたならいいと思う。誰かを言い訳にして滞るのはなしがいい。ずるい。

 

そんなに、驕っていて、オレなら、オレが、私なら、私が、って言うなら、とっとと分身の術の研修にでもいって、「どーぞこちらもおやりください」である。できねーなら、できる位置にいなかったなら、もう何も言わず、言えずただ指をくわえて黙っていてほしい。もちろん、笑顔でありがとうと言われるのは嬉しいから、そういう支えとなるかかわりはいくらでもほしいわ。

 

追伸:振り返って。大切にしたいと思える価値観を一つ見つけた。そして、それは去年と今年何度か見聞きして、違和感を覚えた言葉への答えでもある。

 

違和感をもっていたのは、「好かれる子」にしてあげる。という考えだ。好かれる子にならないと損だということだ。私は、そんなんあるだろうか。と思っていた。

卒業式が終わって一夜明けて、肩が軽く感じる体でコンビニに行った帰りに思ったのは、「誰からも好かれるような子になる大切さが仮にあったとして、同時に、誰をも好きになれるような子」に育ててあげることも大切にしないと、その子は不幸だろうなと思った。誰からも好かれなくとも、誰かを好きになれたら生きていける。誰からも好かれていたとしても、誰も好きになれなかったら。それは、自分がそこにいないみたいで辛いだろうと思う。「誰かを好きになれること」「できればいろいろな人を好きに思えること、大切に思えること」は結構大事だと思う。私はそれを大切にしていこうと思う。さらに、これは逆説になっているだろうね。誰をも好きになれて大切にできる子が、誰からも好かれるってことだと思うんだ。どっちからでもいいってことかもしれないし、ほぼ同時だし、言い回しの違いってだけかもしれないけど。私は、これを大切にしていこう。