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021|アドラー心理学による「勇気くじき」

アドラー心理学自体が「勇気くじき」になることはあるだろうな。

 

アドラー心理学は、さまざまな概念があり、人生に起こる「対人関係」について、網羅的なパターンを包含し、時と場合に応じた施策と、その施策に至る哲学も持ち合わせている。

 

つまり、事象に適当な概念をあてがうことができれば、多くの問題を解決し得る。

 

それがまた悲しい。

アドラー心理学が解決策を持っているにもかかわらず、アドラー心理学を活用できなかったという失敗が「自分にはとてもではないけれどアドラー心理学が向かない」という思いを生む。

 

いくら頑張ってもアドラー心理学を「打破できない感」が生まれることがあるわけだ。

 

その理由は、簡単である。

 

「一人で取り組んでいるから」である。

 

アドラー心理学は、自分を変えても変えても、変えたつもりでも、「まだ足りない」や「やり方が違う」、「心根のスタートがマイナス」などと学んできた歩みをなかったことのようにしてしまう。

 

ただ、その正体は「自分が変えられるようなコントロールできる範囲のみ」を変えて「自分を変えたことにしている」からだ。

 

個人的には、本当は「そこ」。

その限界とした自分こそが一番変わらなければならないが、辛さと費やした時間の苦しさから、その嫌な内側に潜む自分と向き合うことをせず「脱アドラー」をしたくなってしまう。

 

アドラー心理学は、平時な心を手に入れるために実践しようとするからこそ、それと反対にある荒野のような自分の心を見つめることになるから辛い。

 

これは、いわゆる「中だるみ」というだけのことかもしれない。

 

 

。。。

 

 

 

結果として、「負」であるというところだけ見つめると、「脱アドラー」は間近まで迫っている。

 

また、アドラーは、ほとんどが合っていたとしても「根本」「施策」「考え方(哲学)」のどれかが誤っていると、最終的にうまくいかないことも多い。

 

1つが間違っているだけで、結果としては「負」なことがある。

 

だから「ほぼ合っている」ということが、自分では分からない。いつも合っていないと思ってしまう。それが「脱アドラー」につながる原因だと思う。

 

恐らく、それをアドラーも重々承知で、アドラー心理学は、ずっと「お稽古がいる」と言われている。

 

そのお稽古は出来る限り他者がいるだろう。

その他者を介して気づきを得て、本当の意味で自分が変わっていくこと。細胞の色が変わるような体験を重ねていくことで、接した人も心地よさを感じられるような実践者になることができる。

 

しかし、そうして、そうしてまで、時間を費やして、苦痛を伴って、どんなに自分を変えても。世界はほぼ変わらない。

 

それがまた「無力感」によって「脱アドラー」を呼ぶ。そのケアにも、やはり、誰かの援助がいるわけだ。

 

それでも、それなら費やすとしたら、それは「信じる」しかないわけで、宗教扱いされるのは、この辺りなのだろうなと思う。

 

 

ということで、「アドラー」について考えるには心理学と言いつつ、哲学的な部分ももっているように。相手が必要だ。

対話可能な他者が必要なものだなと思う。

 

それは、言い換えると「時間を有する者」という感じだ。たとえば、コスモポリタニズムのような、地球市民性について考えて平和な世界を呼び起こそうとしたとして、やっぱり、それ以外に時間をかけているようでは、そっちにはいけない。

 

そっちにはいけない。

 

そういう日々だなあと思う。そっちに行くためには、そっちに行くための「時間」がいる。その時間を作っていないのだから不安は当然ということになる。

 

 

【今日のこと】

休業によって、時間感覚がいつもと違って、あまり月の感覚がないのだけれど、いつの間にか4月の終わりだった。気にも留めない。

 

この事態の中で、コルチゾールなどのストレスホルモンの基準値が、もれなく全員上がっていると思う。興奮、不安系を煽ると商品がよく売れるということで、メディアは相変わらずその戦略である。確かに何か買いたくなるような。普段買わない炭酸を飲んでしまうような。

 

バケツのメモリが、2月の後半からずっといくらか埋められたまんま、毎日を過ごしている。かつ、それは、一滴一滴毎日ハンデが増えていくような感じだ。

 

クリアだった「人との距離感」の取り方のちょっとした間合いが滲む。

踏み込みすぎたり、踏み込まなすぎたり。

 

語れる相手は必要だなあ。理解者は必要である。