かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

090|クライシスドミノ

最悪は最悪の時に起こる。

 

つまり、一つの事柄では、人は最悪とは思わないということだ。

 

最悪と思う時には重なる。「あーあ」

 

そのきっかけは、些細なことだったりする。

つまりは、ヒヤリハット的なことからドミノのように倒れ、そして、塔がバラバラと崩れ落ちる。

 

そういう時どうすべきか。

私はつい人生を放ってしまうような気持ちが少し湧く。仕方ない。そういうこともあるのかもしれない。速攻で、自分はその現実も受け入れなければならないかもしれない。みたいな覚悟を入れる。自分では好きじゃない処方箋である。これをすると事態で感情が動きにくくなる。特に悲しみで泣けないことが多い。それくらい、自分は「自分の人生ってのはこんなもんだ」と思っている節がある。

 

頑張らな過ぎて、もしくは、頑張るほど、そのドミノが倒れるのを止めることができないことがある。

 

誤った選択によって、起こらないで済んだことが、起こってしまうということだ。(ただ、これは、後日また何かを起こさないための、布石になることもある)

 

とにかく人生は地続きである。複雑な兼ね合いで、ある日の出来事が起こる。その起因を突き止めることはできない。螺旋のように、クルクルと巡って、ある日のバタンとはじまっていたドミノが目の前にある大事なものを崩していくようなイメージだ。

 

誰もが悪くない世界で起こる悪いことは、一体誰のせいで起こるのか。もうそれは、自分を殴るしかない案件なのだろうか。

 

今日は、出張で、時間通りに帰らなくもなかった。しかし、お休みした子に時間割を伝え忘れてしまった。気を利かせて戻ることにする。別のトラブルがあったことに巻き込まれる。余計に時間を取られる。家からビニル片を飲み込んでしまって病院に行くと電話が来る。私はどうしたって、駆けつけるまで40分以上かかってしまう。帰っていれば動きは変わって、起こらなかったことなのだろうか。それともいつかは、起こることだったのだろうか。なんども片付けるべきだとか、ここに柵をだとか言っていたことが頭をよぎる。そういう些細な積み重ねの、至らなさの審判が結果である。遠くの空の上の誰かさんは、いろいろな積み重ねから算段して、判決を下す。原罪なんてクソだとおもうのだけれど、リンガーハットピザハットに並ぶ、日本三大ハットのヒヤリハットは(イエローハットに「おーい!」と言われそうだけど)、どうしても拭えないシステムで、あの時ああすればが多いほど、約300分の1で舞い込んできた事態に、余計に苛立つ。一生懸命生きたって、頑張ったって、辛くたって、いくらでも至らなさは誰にでもいくらでも突きつけることができて、まるで「お前は正しくなかった」ということだ、頑張り方が間違っていた、だから辛いんだと跳ね返されて、世界は残酷だと思う。意地悪だなあと思う。

 

ただ、そんな感情自体がナンセンスで、ただの物理的な、精神的な、自然的な仕組みに過ぎないということも頭をよぎる。ヒヤリハットで済んだのなら、次はさらに気をつける。改善できることをする。そうして、また、明日に向かうしかない。エラーが起こらないようにってのは無理なんだから、悔いないで、できること、思いつけることをやろうね。

精神と自然―生きた世界の認識論

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精神の生態学

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螺旋する良くない循環を崩して、違いを起こせばよい。