かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

124|「ありのまま」との対峙

日常があって。

 

非日常がある。

 

誰もが、なんとなくやり過ごしている日常。

ふと、本音が顔を覗かせる非日常。

 

いつもと違うこと。

大抵は「悪いことが起こった時」が非日常になりがちである。

 

改まった指導。というようなもの。

 

そこでどう対峙するか。その仕方で日常への影響が変わる。

 

たとえば、それは、その子にとって日常であった。しかし、それを非日常にしてください。やめてくださいという指導。

 

日常はそう簡単に引っ込んで、非日常にすることが可能なのだろうか。

 

それをすれば非日常に引き込まれるよ、だから、日常にいたいなら、それをやめなさいってニュアンスだろうか。

 

この指導は日常に嫌気が差している場合は、入らない。

 

たとえば、その子に非日常的な日常が潜んでいるとする。その非日常の連鎖が起こっているのかもしれない。

 

それをやめても、出だしの非日常が変わらない場合。その子は、その非日常を何に還元するのだろう。

 

その子が思っていることを、「ありのまま」表現できたら変わるだろうか。表現できないから、違った形で非日常が連鎖を起こしているように思う。我慢しているから。それが、誰かに我慢を及ぼすような結果になる。

 

自業自得。自己責任。原発主義。不寛容。

それで、行為がなくなったとして、その子は「ありのまま」生きられるんだろうか。

 

もちろん、「ありのまま」が不適切なのだから、改めなければならない。ただし、その改させ方は、あまり力づくでない方がいいかなあ、と思う。

 

十分に好意を伝えてみよう。そして、願ってみよう。代わりに何かできないか聞いてみよう。その子が「ありのまま」でいて、過ごせるように、堪えて耐え忍ぶでなく、やりくりできるように。もし、そこで、その子が非日常にしてしまっている「ありのまま」にアクセスできたなら、非日常のその時のその行為をするその子は変わるな。

 

私の正直さが試される。素で、裸で向き合えるか。やってみよう。