かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

148|信じたいものを信じること

「意見をもつ」っていうことと向き合いきれていないような気がする。

 

それは、「どの立場を取るか」ということにも似ていると思う。

 

「こうしたい」というよりは、「私はこういう考えでいる」と放るような感覚に似ている。決して無責任というわけではなくて。

 

なんとなく「場を邁進させる力」が、魅了だなんて思っていたのだけれど、そんなことはなくて、「場」に落ちるさまざまな言葉によって、物事は躍進するのではないか、と思った。

魅了されない言葉があるおかげで、魅了される言葉があるということだ。

 

最近のやり取りで、自分の言葉選びが感心されることがある。「自分の言葉で伝えている」と称されるそれは、ただ学がないだけなのだけれど、クセのある言い回しでもあるらしく、関係によってとても届くものでもあるようである。これは単に幸いなこと。はっきり言って、受け手の脳みそが良いだけだとも思う。

 

でも、一つどうして、そういう言葉が出るかと言えば、考えてはいるし、できるだけ月並みでないようにとも思うし、一番は、「分かりきったことは言わないように」しているところだろうなとも思うし。安い励ましもしないようにしている。どこかで聞いたことのあるような言葉を言わないようにしている(つもり)。そして、匂わせるその周辺の言葉を散りばめることが多い。「あっ」と気づいてもらうためである。直球では人は変わらず、ただ破壊されてしまうだけであるということを感覚で学んでしまって、その感覚が苦手で、良くも悪くも避けようとしてしまうのである。

 

そして、いろいろと言葉を放る。そして、対話の中で生まれるものを尊重する。そこにVIVIDがあるだけなのだと思う。

 

たとえば、言われたくないことを言わずに、言われたいことを言う。その人が躍進するために必要な言葉を選ぶ。その人が良くなるには。生きやすくなるには。ほんの少し気を逸らしたり、ほんの少し向き合えるようにしたり。相手を信じて放ってみるだけである。

 

そして、もの凄いタイミングのLINEによって、また、共に語ることのできる時間が産まれゆくのである。