かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

160|頭が働かないという感覚がある

「あっ」と突き抜けることが少ない。ずーっと「ぼー」っと「ごー」っとしている。

 

悪循環。

 

疲れか?→ミス→自己否定疲労増→考えられない→手間が増える→パッとしない自分→自己否定疲労

 

みたいな。

 

「自己否定疲労」なんてのは、今、思いついた言葉だけれど。

 

要はこれのことです。

どんな種類の情緒的要素が座業労働者を疲れさせるのであろうか? 

喜び? 満足? 決してそうではない。退屈、恨み、正当に評価されていないという気持ち、無力感、焦燥、不安、悩み──これらの情緒的要素が座業労働者を疲れさせ、かぜの原因となり、生産を低下させ、神経性の頭痛とともに家に送り返す結果になるのである。

私たちは、自分の感情が体の中で生み出した精神的緊張のために疲労するのだ。

道は開ける 新装版

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そんで、「くつろぐこと!」が大事だと。

激しい仕事そのものからの疲労は、たいていの場合、十分な睡眠や休息によって回復します……悩み、緊張、感情の混乱こそ疲労の三大原因です。

しばしば肉体的あるいは精神的労働に起因しているように思われる場合でも、それらが原因となっていることが少なくありません……筋肉が緊張すれば、筋肉が働いているということを忘れてはいけません。

まず、くつろぐことです! 大切な責務のためにエネルギーを蓄積しましょう」

 

さあ、くつろごう!

あなたは、いつ何時でも、どこにいても、リラックスすることができる。しかし、リラックスしようと努力してはならない。くつろぎの状態とは、あらゆる緊張や努力が消え去ることである。

気持ちを楽にして、くつろぐことを考えてほしい。

まず目と顔の筋肉を休めることからはじめ、「休め……休め……くつろぐのだ」と繰り返そう。

そうすれば、エネルギーが顔面の筋肉から体の中心部へと流れていくのがわかるだろう。

そして赤ん坊のように、緊張から解放されている状態を思い浮かべてほしい。

大事だろうなあ。

 

やはり、その「こわばり」なのだとも思う。今日は、心が緩かったように思う。大半は「どう思われるか」という「クソみたいな不安」なのだろうな。

 

見られてどう言われるか、みたいな不安だ。

 

ただ、いろいろ言葉をもらったなあ。

「成功させようみたいに思う必要ないと思うよ」というのはありがたかった。まさに、そんなことを思ってしまっていたので。「成功させろよ!?」とされている感じがあった。

 

保護者とも話せた。やはり、子どのことを話せて、共有できると嬉しい。子どもの成長を共有できることが一番嬉しいかもな。現状に理解を得られることも安心材料かな。

 

コントロール不能なのではないか、という予感が苦しいのだな。

 

月曜は、日曜の夜の後遺症で辛かった。

火曜も、まだ尾を引いていたが、図工でやり過ごしたかな。

水曜が、一番どんよりだった。荒れているのかも。仕事向いてないかもって思えた。

木曜に、子どもの姿を数で記録しようと思って、思ったよりも深刻ではないのではないか、と思えた。実際良い姿もあった。ドタバタと楽しんだ。

金曜も、まあ、よかった。子どもたちの動きが悪くなかったな。学活で、「我々」を話して、よりよくなっていこうとなれたのが良かった。話し合いをもっと向かい合ってさせたかったという反省。算数は、デタラメなことをやっていて、最後に「ノート出して、べんきょうしたことを書きなさい。3つで花丸です。」とか言って。それで、書かせてもってこさせたら、案外書けて驚いた。今まで一度も振り返りを書かせていなかったが、日記は書かせていた。メタする脳を育てることはできていたようで、捨てたもんじゃないと思えた。それと、気になるあの子が、朝一、来年は誰先生?と聞いてきたんだな。「来年も私がいい」と。楽してんのかな、と思った。休み時間前に課題を強いて涙をポロポロ落とさせもしているが。さらに学活でクラスの良いところよくないところを話し合った時に「よい」と言っていて「何が」と言ったら「人がめっちゃいい」と言っていた。誰かにとって、そういうクラスではあるなら、また自分を許せる。あと、そうそう、測るといいんだよな。国語でも、「うわ、めっちゃきつい」と思ったけど、数えると3分の1がいまいちだと分かった。そうなれば、また、まだいけるとも思えるから。では、また来週ってわけだ。