あれやこれやと考え続けて、12日が過ぎたが、特段脳みそがピンと来ることがなかった。
一昨日から、kindleで本を読み漁る(定期)みたいなのがあり。
自分の不安の一部に巡り合って、「ああ、これにモヤモヤしていたのかな」と思いもする。
その解決を「今にフォーカスする」って時と、「いやなんとかせねばと食らいつく」って時とがある。
この本。
「あとがき」に書かれていることがフィットした。
概ね、格差のトップにいるのは、エンジニア路線かエンタメ路線かということだった。
学校の先生への見方もそこに当てはまると思った。
そもそも、教師は子どもたちにとって、そんなにはなりたいものではなく、その影響には限度があるのだろうな、と思った。
「エンタメっ気」のある先生が、インフルエンサーとして目立っているのだろうな、と思った。
もちろん両輪の人もいる。
「弁が立つ」とか「パワー」とかっていうのもあるかな。
こうした視点でもって、お互いをトリミングし合っているとぶつかるのだろうなあ。
野中先生は、教師を「聖職者、労働者、専門職」と捉える目があって、各々が競り合っているというようなことを本に書いていた。
その比重の違いやそもそもの捉え方の違いが、エンジニアかエンタメかと関連するのだろうな。
「預かり所」の機能と「教科教育」の機能の比重も関連しているかもしれない。
それがまとまって、「学校って?」という思いになっていく。
赤坂先生は、「強い願い」の大切さを本で訴えていた。その「強い願い」がスタンスになっていく。
「学校とは◯◯である」。これを、「強い願い」として掲げられる教師は「パワー」のある指導ができる。これが「権力」を振りかざすような、押しの指導になると詰む。
「社会では通用しない!」とか「大人になったら困る!」というのがたとえ真実だとしても、この言葉を大声で叫ぶだけでは通用しなくなっているし、そういう先生は淘汰される時代になっている(当たり前か)。
勉強していくしかない。
「勉強させていただきます」「勉強になります」と言うことではなくて、自分の生き様(振る舞い)を変えるような出会いと学びがいる。
それは、「環境を変える」ということかもしれない。
寝たのは0:30だった。最悪。