かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

心ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

心ってなんだっけ

心っていうのは、身体じゃない自分だ。

自分の中にいるパイロットみたいな感じ。

パイロットは脳じゃないの?って思うかもしれないけど。

ご名答です。
脳で考えたり、指を動かしたり、心臓を動かしていたり(心臓は基本オートだけどね)するわけだ。
そして、心は脳にあるっていうのが現代の結論。(昔は心臓って考えとかもよくあった。)

脳は身体と心を繋ぐ役目をもっているっていうイメージもしたいんだけど。
それより、そもそも脳の働きが心と言えるみたい。

あんまり細かいことは言いたくないんだけど、
脳で起こる心の働きについて話す。

心の働きには、情動、知識、意志の3つがある。
簡単に言うと、
本能による心の働きは「情動」(食べたいとか、寝たいとか、人を好きになるのもこれ)
理性的な記憶や知識によって考えたり行動を想像したいする心の働きは「知識」、「意志」(考えるとか理性的なものね)
である。(合ってるかな?まぁ、詳しく調べたい人はご自分で・・・・・・。)

この心と深いつながりのある脳が厄介なもので、
感じていることと実際が違ったりすることもある。
脳の捉え方はそん時それぞれだ。

でも、私がしたいのは、こういう話じゃなくて、
もうちょっと感覚的な概念の話。

「身体と心」はもっと簡単な言葉で表現すると、
自分の「外側と内側」ってことだろって話。

身体は外側の自分、
心は内側の自分である。

人は「身体」を媒体として五感などを頼りにして自分以外を感じ取り、
「心」で判断・反応してまた「身体」にすべきことを返していく。

問題は、内側で行われることは、あくまで内側で起こっていることでしかなく、
外側に良い結果を起こせるか分からないというところだ。

この
「外側(事案発生)→内側(処理)→外側(結果)」
の日常の流れ中で「内側」で処理しきれなくなると、「心」が痛むわけだ。
(上手く心が外側の世界を感じ取れなかった場合、身体が故障したり、
直で心が傷ついちゃったりするんだよね。)

少し話しが逸れるけど、
「身体と心」は等価だと思うんです。
自分の中に、
「自分の身体とそっくりそのまんまの形の心っていう分身みたいなものがあると考えると、
心の目には見えないという感じが薄れたり、大切さが捉えやすくなったりすると思う。

たとえば身体のケアと同じくらい心のケアも大切だってことだ。
実際、今でこそ心のケアはいたるところで取り上げられていると思うけれど、
身体のケアで事足りていた時代にはあまり注目されていなかったように思う。

なぜかと言えば、それは、身体のケアの際に身体のケアをする人が、
心のケアも上手に行っていたからだと思う。
身近なところでは、"いたいのいたいのとんでいけ"とか"手当て"とかだ。
周りを見渡してみると、今はこういうのを上手に使える人があまりいない気がする。
なぜ使う人が減ったかというと、なんというか照れくさいというか、嘘くさいというか、
科学的根拠がないというかそんなところだろう。
(ちょっとした傷に必要なのは絆創膏などの誤魔化しではなく、心のケアなのではないかと思っているわけだ。
もちろん、実際的な水で洗うなどの消毒は重要だとしてね。)

というところで(デデン)

心を身体と同等に重要なものとして扱ったり、大切にしなければ、
エラーが起こるのは当然のこと。

と言いたかった。

これは、杜撰なたとえかもしれないが、

自殺は心の癌だろうと思う。
身体の癌はウイルスによるもので、時間が経つと増殖して命の危険が迫るわけなんだけど、
心の癌はウイルスではないんだけど、内側で起こるエラーの増殖によるものだと思うのだ。

心のエラーも身体の癌と同様発見が遅れるとどうにも対処できないところまでいく。

心のエラーって言っても、と思うかもしれないが、
どんな状態かと言えば、
・外側で起こったことを上手く内側に変換できない
(たとえば、そんなに嫌じゃない出来事をものすごく嫌なこと捉えてしまったり、
素敵な出来事を嬉しい出来事と思えなかったり)

・内側でスムーズに処理したり、適切な処理を選択できない
(たとえば、自分の能力なら間違いなくできるのに絶対できないと思ってしまったり、
解決策はいろいろあるのにそれしかないと思ってしまったり)

・内側で処理したことを上手く外側に表現できない
(たとえば、本当はこうしたいと思っているのだけど身体がうまく動かなかったり、
良い考えなのだけどその考えは今の自分自身には現実からかけ離れすぎていてうまくいかなかったり)

この結果が心の病なのだと思う。
(ただし、上記の状態は何かが"悪いわけではない!!"絶対に。
そういう時は誰にでも往々にしてあるし、誰にでもあってよいこと。)

当然、心の病も適切な処置によって回復することは可能である。
深い治療に関しては専門家の人にお任せするとして(リンク→こころの健康相談統一ダイヤル

ここでは早期発見の必要性と、日常的に心を意識してケアを視野に入れる必要性を話したい。

身体と心を等価・同等と捉えられるとすれば、

心も身体と同じくらい日常的に転んだり、傷ついたりしていると考えられる。
目に見えない分、意識を強くして、見えないけれど目を凝らして心に優しく寄り添う姿勢が大切だ。

心のケアを考えたとき出来る身近なことを少し考えてみる。

一つは、
『人に話すこと』(これが一番優先して大事なことな気がする。)

そして、
『睡眠時間の確保』(あなどれない。日々きちんと寝てみる。朝起きてみる。)

あとは……。

『食べる』おいしいもの・温かいもの(これは、人の愛情が感じられた方が効果が高いかも。)

どれも大切だけれど、上から順に大切です。
特に「人に話す」は一人じゃ出来ないという若干のハードルの高さがあるところからして、
重要度は高い。やりにくいからこそ、実際やって効果が強いってこと。
「人に話す」が足りなくて苦労している人が多いんじゃないだろうか。
(「でも、そんな時間取れないんですよ」オレはそう言う奴が大っ嫌いだ。
心や自分や他人を蔑ろにしすぎだし、アンタの優先順位はなんなの!?と……失礼、コホン。)

たとえば、話すために、
どこにでも、誰にでもってわけにはいかないけれど、

「すみません、相談していいですか。」
って言えば、悪徳商法者か、変態か、忙しすぎる人々以外は聞いてくれるもんだ。
相談に乗ってくれた人は、自分の味方になろうとしてしまうっていう心理も人にはそもそもある。
(味方になってほしい人には相談するってわけだ。)
↑(これは、待つ側にも大切な言葉だね。相談される側の人は「味方になってほしい」と思われる人になれってことだ。)

安心・安全のために友人、仲間、知り合い、お世話になったことのある大人、公的機関をあたるのが妥当だと思うけれど……。

また、ペットに話す人もいるし、ネットに吐き出す、ノートに書きなぐる人もいると思います。

そうそう、話すも、文章化も、歌にするとか、諸々。
これらは全て、表現するってことだ。

やっぱり「心は目に見えない自分の内側」だっていう話で、
見えないからこそ、「心」は表現されたい、形になりたいって願望が強くあるんじゃないかって思うわけだ。
「表現や形化」ってことは、五感で感じ取れるものに変化させるってことと考えると、

内側(心)の外側(身体)に行きたいっていう欲求をうまく叶えてあげることで、
心がケアされるってことになんとなく納得がいく。

言いたいことは、
だから、話せ!ってことだ。
ただし、上で言ったように人を選んでね。

どんな人を選べばいいかもテクニックがあるような気がするけれど、
第一ヒントは、今自分が手の届く人でいいと思う。(本当に一応気をつけてほしいけど。)
第二ヒントは、ひらめきに任せる。
(大胆に、あの有名人に手紙を書こうでもいいと思う。決して返事のないことには悲しまないこと。)
第三ヒントは辛抱強く待つ。
(これも、大事。寝て食べて待っていれば助け舟が来ることもある。
寝る、食べるっていうのは、表現できるまでの一人の期間の耐え忍び方なわけだ。
必殺の「忘れる」はあまり心のケアには効果がないと思う。)
第四ヒントは、外に出てみること。散歩、公共機関に出向く、そして買い物もいいと思う。仕事探しも。

さっき、「表現や形化」って話が出たけど、
これは、「愛ってなんだっけ」でも少し話したことだ。(→リンク
思えばちゃんと愛にも心って漢字が使われている。
これは「表現されたい願望を持った心を使うもの」ですよって意味を含んでいるのかもしれない。

他にも心を使った漢字で注目したいものがある。

それは、息だ。
息って字を見たときに、なんで息は自分の心って書くんだろうって思ったんだけど。
よくよく考えると当たり前で、思えば息・呼吸が自分の心だと。

極端に言えば、今呼吸している自分が自分そのものだろって。
そういうメッセージだと捉えた。
これは、優しい考えだなって思う。

言い過ぎれば、
オレらが呼吸してるってこと、生きているってことがもう表現なんだってことだ。
(飛躍しすぎかもしれないけども。)

自分たちは常に心を表現しているという、常時心のケア状態だという、無敵マリオみたいなわけだ。
しかも、無敵マリオは時間制限ありだけど、私達は生きている間は呼吸が続く。
つまり、生きている限りは無敵状態ってわけだ。

ただし、さらに言うと、無敵マリオでいても、ジッとしていると意味はない。
コースを自由に縦横無尽に駆け回ることで無敵マリオはより意味を成す。
私達は制限時間がうんと長いので、駆け回る必要はないけれど、
その常に心が表現された無敵状態の中で、自分の思う行動(より自分なりの心の表現)をしていいし、
することで自分の呼吸(自身の生きる)ってことが意味をもつってことだ。

どうだろう。息したいね。息したくなったね。

もはや、呼吸しているものを愛したくなったね。
(なぜか、一番最初に水槽のポンプが浮かんじゃったけど。
あれも呼吸してんのか?いや!アイツは吐きっぱなしだ!!)

「息を吸うのはいいことだ。」
これは、中1のときに長野に宿泊する学校行事があったんだけど、
泊まった民宿の人が夜の反省会の時間に話をしてくれたとき、
「君らも将来とか日常の中で感謝して何か良いことをしていかなきゃいけない。」
みたいなことを言って、「良いことって何がある?」って言って、すかさずにオレがこれを言って変顔をしながら息を吸った。
その瞬間に、爆笑が起き、大切な夜の反省会の神妙なムードはぶち壊しになった。
「息を吸うことはいいことだ」は、後々、中学を卒業するまで、
時折、その日ただ民宿が一緒だった同級生に廊下などですれ違うと「ねぇねぇあれやって」と言われるほど長く親しまれた。
要は、あのときは、本当にすみませんでした。
けれど、「息を吸うことはいいことだ」これはマジかもしれない。

「いいんだよ。君、息していいんだよ。」ってね。
なんか寛容で温かい。

総じて、言いたいことは
内側の自分の世界を平和にすることだ。

また、自分への価値をむやみに卑下しないってことだ。
息するだけでOKなんですから。

外側を覆い隠すために内側で必死になる必要はない。
ただ自然に外側を受け取って、内側で感じて、外側に出したらいい。
そして、心と身体の均衡を保つってこと。

より、一言で言えば、
素直でいられる場を作るってことだ。

人には、自分以外の話し相手が必ず必要になる。
そこで、自分を話せること。建前じゃなく。本音ってやつを。

もう一つ技として、
どうしても一人なら、他人に近いものとして読書も有効である。
読書は自分との対話ってよく言うよね。

そうして、
「外側にある内側に必要なものを有効活用して心をケアしてほしい。」

最後に内側の均衡のために必要な考えを述べておく。
(最後とか言ってここからがまた長い。)
それは、
人っていうのは、

「心と身体と魂」

で出来ているって話しだ。

上で、

心は内側の自分、身体は外側の自分って話をしたんだけど。
じゃあ、魂はなんなのかって。

簡単な計算をすればいい。
宇宙-(内側の自分+外側の自分)=

答えは……。
A.自分以外のすべて

YES

そう

「魂は自分以外のすべてだ!」

こう考えるといろいろ辻褄が合う。

自分の生き様は、自分自身で決めているように思いがちだが、
実際の実際は、生まれてから外側で起こっていることに反応して選択しているだけだ。

自分の人生は、自分以外のすべてによって引き起こされていると言っても過言ではない。
(あーーーーーーーーーーったりまえだけどね。)
自分を行くべき場所に導くことを誘発しているのは、自分以外の存在(しかもすべての存在)なのだ。

もし。もし!生まれる前に目的があったなら、魂とかそういう優れた何かは、
自分に必要な盤面を用意するだろうと思うのだ。

必要な盤面という意味では、
身体と心は、自分というこの世界に用意された大切な一部だ。

自分の身体ってのは、経験したいことを得るために選んだ自分のための適切な身体で、
自分の心っていうのは、身体からの刺激を処理するための自分らしい反応ができる自分の心(脳の働き)なわけだ。

良いたとえか分からないけれど、
顔とか良い悪いで判断したら不満はめちゃくちゃに誰だって出るんだけど、
どれが自分らしいかって考えると以外と今の自分だったりして、これだよなぁとか思うところもなくはないみたいな。

その身体、心でいる理由が何かしらあるってこと。

そして、ときに、そのどっかで選んだ自分の身体と心の在るべき状態、向かうべき場所への道が、
本線から外れることもある。
(その辺りは詳しくは「運命ってなんだっけ」を見てほしい。→リンク

でも、自分以外のすべてが自分の魂だとすれば、利用できることがある。
それは、外側の世界から自分の在るべき状態へのヒントをもらうということだ。

(そうして、本線へ立ち返り、私達はより心地よく生きることを継続できるってこと。)

たとえば、誰かに相談したとしたら、その人からもらった答えは、
自分の魂からのメッセージと考えられるわけだ。
(この原理を私は実体験として実感しているのだけれど、どうりで相談すると気持ちが楽になるわけだ。と。
上でも話たけど、人に話すことが強く効果がある理由はこの辺りにもありそう。)

相手も自分の一部であるなら相談の一歩を踏み出すのに遠慮はいらないし、
反対に相手も自分であるならより大切にしたいとも思う。
人間と人間は、真に存在を肯定し合える、相互に補完し合っている関係なのだ。



そうだ!私は一人で生きすぎたのだ!!!……ってね。



そう思ってほしい。(これは、幸せへのヒントでもある。)
というわけで、外側を疑わないでほしい。
魂(自分以外のすべて)がくれているものを素直に受け取ってみる。
自分の身体でだ。そして、心で感じてみる。
それで、出来上がったものを身体で表現すればいい!

その表現が魂に返るって仕組みで、それが蓄積されて成就するなんらかの何かがある。
それはこの世の存続だとか、生物全体の幸せへ向かうエネルギーだとか、
そういう真の目的やシステムみたいのは、想像に過ぎなくてよく分からないけど。



自分以外のすべてから何を受け取るのか、受け取り方は、

空を見上げることなのか、本を開くことなのか、風呂に入ることなのか、昼ごはんを食べることなのか、 駅にいくことなのか、あの人に電話をしてみることなのか、学校に行くことなのか、眠ることなのか、

それはあなたの心が決めていい。どうしても必要ならどうしても必要な用事ができる。



言いたいことは……。

安心して今を生きるってことだ。生きていいってことだ。

外側に内側のエラーを直してくれるような、
エラーを根こそぎ持って行くようなシステムがあるってことを知っておいてほしい。
同時に、当然外側は内側を蝕むこともできるから、見極めが必要になる。

(ここは、ある疑問を持った人だけが、見てくれればいいんだけど、
そうすると、どんなに嫌な人でも自分なのだから一緒にいてあげるべきでもあるってことでしょ?
そう言う人もいるでしょう。そうその通り。ただ、面白いのは、全部自分なのだから。自分はどこにいてもいいってことだ。
そもそも、自分は心と身体で、自分以外は魂で、だったらその中に自分たらしめる自分はどこにいるのよ。と。
はい、ご名答。よくお気づきで。ということは、この世界で、自分の知る限りの環境のその中で、自分がいたいところにいていいってことだ。
全部自分だ。身近な自分を選んでいい。今、自分がどこにいたいか、どういたいか、どうありたいか。それに過ぎないってことだ。
もう少しヒントを挙げると。ある場所のある人が嫌だとする。これは、自分の魂がくれた、ここから遠ざかりなさいというヒントだ。
自分が今そこにいるべきなら、魂(周囲の大切な人々)は両手を広げて微笑んでいるように見えるはずだろう。)

心ってなんだっけ。

それは、目に見えない自分のことだ。

そういえば、心っていうのは優しいものなのかもしれない。
自分や誰かのために怒ったり悲しんだりするからね。

この身体と心で唯一無二の自分を生きていく。
今日も魂に見守られながら。

そんな、心ってなんだっけ。