他人のHappyを祝福しよーーー!!ハピペンです。
来年度、自分にもHappyがあるとよい。それは、行動しないと得られなそうだなあ。
エピソード記述を来年度やっていきたいのだけど、preでちょっとやってみようかなと思う。
わずかだけれども、このブログでもやってはいる。
マジでわずかだな。3つしかやってないじゃん(笑)
まあ、別の学びに移行してしまったからというのもあるのだけれど。
自分に引っかかっていることって、結局、どこかのステージで現れるから、やろうと思ったことはやっちまった方がいいよ。うん、いや、マジで。
「やあ!1年ぶりだね!エピソード記述くん!」
背景
4年生の子。Aくん。お別れ会で漫才をやろうと言ってきた子。見通しがあると落ち着いて過ごせる子。不安を抱きやすいっちゃ抱きやすい。今日の1時間目は、ずーっと黙々と折り紙のわっかづくりをしていた。その子は実は、一番の古株で、そこにいる人々への思いやりが強いのかもしれない。とにかく優しい。均衡を保とうとする。無理に自分を押さえてというよりは、「こうした方がいいんじゃないの?」と疑問形交じりに訴えることが多い。活動の際に約束を挙げさせると「低学年を守る」を高確率で言ってくる。このクラスから、明日一人の子が旅立つ。Bくん。Aくんは「オレは中学でまた会えるよね」とよく言っていた。
エピソード
4月から見ている中で、今日は机とイスが一番きれいに整列した。Aくんが5分休みに一人で並べ始めたのだった。いつもいるメンバーの子ども5人の机、大人3人のイス。それ以外にも、誰か来るかもしれないと言ってイスを3つ追加して並べた。理由の中には、自分がする漫才をきちんと座ってみてもらいたいというのがあったのかもしれない。しかし、それ以上のものを感じた。そのちゃんと見てほしいということは、自己掲示欲ではなく、Bくんに楽しんでもらいたいからではないか。と思った。はじめの言葉はAくんだった。これにも驚いた。大きい声であったこと。3分くらい話していた。「今日で最後かもしれない。みんなで一緒に楽しみましょう。小学校1年生のときBくんは何をしていましたか。」など、思いを溢れる言葉に乗せていた。こんなに、自分の意思を表現している姿も、4月以来初めて見た。私は、今回どこか失敗したかな。と思っていた。大人が手を入れ過ぎなかったために、子どもたちによる演出だらけだったからだ。しかし、子ども同士で子どもの世界というのは十分に成立して、成功か失敗かは結局分からなかったのだけれど、上手くいったのではないか。とも思っている。Bくんが「ネタすごいね!」と言っていたから。
メタ観察
やっぱり思いは行動に現れる
会をやるときに、イスや机を動かす必然ってある。それをダラダラと面倒くさそうにやる姿もあるっちゃある。でも、今日のAくんはきびきびと、そしてルンルンとしてた。会がはじまる前から会ははじまっているのだ。そのAくんから出てくる雰囲気が会を温かいものにしたと思う。
私が表している行動は、周囲にどう影響しているだろうか。と考えたくなる。
不機嫌そうでないか、つまらなそうでないか、不満そうでないか。子どもたちを不安にさせていたら嫌だ。
子どもの世界を濁さない
大人の違和感や印象だけが正解というわけではない。
私は「しずくちゃん」を師匠の一人としているのだけど、彼は、混沌のときは混沌を楽しもうとする。決して正そうとしない。そこから生まれる教訓がある。「いま、ここ」に浸ってみる。
振り返って思う。
やっぱり。みんな会に集中していたし、ゲームや出し物の際に、「時間でーす」と告げるとサッと切り替えた。
自分たちで作った会。大人につべこべ言われずに進行していく。
「そうか!振り返りが足りないんだ!」
私のモヤモヤはここにあるかもしれない。子どもがその良さを感じられていたなら、自信となって、次に生きるに違いない。改善点も聞こう。
自分自身も会をもっている
準備……。準備ね。
ルンルンやっているかなあ?
自分のしたいことと合っているか次第だろうか。
在りたいように在る自分へ。
学びたいように学ぶ自分へ。
今はそう思わざるを得ない必然もあるかもしれない。
そういうポジション、立ち位置。
そういうのは、自ずと明らかになっていくはずだ。
生き急いで、答えを見つけなくてもいい。株のように寝かせておくイメージだ。
こんな感じに、明日につながる振り返りができたと感じられるのが「エピソード記述」です。