かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

今日は順調だった

昨日の21:00帰り(これでも早いよな……)した貯金がよかった。

 

授業準備が楽しい。ある部屋ではできないが、ある部屋ではできる。ああ。

 

この間、イチタカさんが、手をかけるほど、好きになっていくということを言っていた。

 

そうだろうと思った。

その前段階の「手をかけたくなるかどうか」で、自分はつまずいているような気もしたのだが、少しだけ意識的に働きかけていく。

 

そうすると、やはりコミュニケーションが好循環する。

 

あの子の動きいいなあ。とか。

ああ、いいこと言うなあ。とか。

めっちゃ力合わせるやんかの人たち。とか。

 

救われるし、救われまくるし、本当に感謝しかない。

 

夏休みにイチタカさんの授業を見られたのが良かった。

 

子どもの姿を片付ける時の、間とか、トーンとかを少し意識して寄せていっている。

した行動に、必ずに近いくらい、何か良さを伝えるという、リズムのよさを、イチタカさんから学んだ。

 

実は、私は、授業の流れを少し止めて、価値付ける言葉を言いまくるのは、授業内容から外れて混乱しないかな、と少しだけ思っていた。

 

しかし、そんなことはなく、むしろ、やはり、モチベーションにつながる。

「今のは、〇〇だから、こうよかったですよね。さすがですよね。」

みたいなことを、ふんだんに言っていくわけである。

 

そして、準備があればこそ、そんな風に外れるわけがないのだ。今日それを学んだ。授業準備の感覚がやっとわかった。そして、準備をすると、どこでボケるかを練ることもできると分かった。

 

明日は、ランドセルを開けて、入れるところの形から「およその体積を求める」問いに入っていく。

 

「ランドセル開けたらどうなってると思う?」

と聞く。

 

「四角くなってる」と言ってくれるとよい。

 

私は「ユニコーンのいる森」を見せようと思う。「こういう夢のある世界ですよね。みなさんのランドセルの中身は」と言う。

 

「違うか、こっちか」と地球が映った宇宙を見せる。

 

ボケと見せかけて、これは終盤で「地球のおよその体積も求めさせる」ことにつなげてみる。

 

それでも、課題はいくらでもある。

価値づけられるには、そういう「眼」がないといけない。

なければ、いくらでも見落とす。それがやばい。見えない自分に対しての不安は大きい。

 

ただ、子どもの姿がよくなっているってことは、なんとかやりくりできているんじゃないか、と信じて、やっていってみるしかない。