担当していた行事が終わる。
担当です!ってほど意気込んでいたほどでもなくて、最低限の渉外と日程の調整と下見とって感じで、そんなに神経を使わずにできて良かった。
今の職場にある「神経を使わなければならない」という感じを払拭したいと思って気を抜いて取り組んだ(何言ってんだコイツって感じでしょうけど)。
その結果、午前の見学場所に、25分遅れで到着する。あらま。
「もっと全力でバス会社と打ち合わせておいた方がよかったですかー!?」との心の中で焦って叫ぶも。こういう時こそ落ち着くしかない。
幸い、昼食の時間を多めにとっていたので、そこを調整することで、うまくいった。じゃあ25分何が大きく削れたのかというと、見学時間であり、それは、彼らの損失だったと思う。ただ、それはどうしたって、その時間分しか得られないっていうか、その分だけ20分早く集合するかというと、そりゃないわけで、紙面上予定が変わり対応しなければならないってことが起こったということが問題になると思う。そもそもを言えば見学先は時間指定のパッケージしかなく、遅れたからオーダーメイド的な時間配分で見学できたわけで、やはり結果オーライかもしれない。
冷静に恐るべき時間調整もファインプレイも行い、他の先生たちも臨機応変に対応していただき、無事に終えた。そうそう、それそれ。である。
ミスしないように、不安になりながら、散々チェックして前日まで準備をするとか。そういうことではなく、これでよい。終わってんだから、楽しめたんだから。ねえ。
そして、学校の近くに着く。その時思ったのは「この子たちと出かけるの面白いなあ。もっと、いくらでもいいものを一緒に見て回りたい」ということだった。哀愁に満ちる。「彼らのことが大好きなんですー!!」って感じは一切ないのだけど、ふと彼らを好きだなと思うことがある。胸の奥の方に、温かな火が灯っていて、私はこの先ふと何度もこの温かみをおもいだすのだろうな、と思う。
地区別に送って、学校に戻るときに、遠くから学校を眺めた。いくつも教室があって、職員室だけ灯りがついている、自分の教室の場所に目を向ける。一番上の端が私たちの教室だ。
「ああ、あんな小さいところでいろいろ起こってるんだなあ。あんな小さいところで起こってるだけなんだよなあ。」と思った。
ちっぽけだった。どんなことも、深刻になりすぎる必要はない。あんなちっさいところで起こってることに過ぎない。世界は広い。にもかかわらず、教室には、オレらのすべてが詰まって、来週もそれぞれの人生が絡まり合って、またそれぞれの宇宙を生み出す。いいじゃないか。
なんかあった人たちも、関わりはあった。人と起こったことを切り離せているような、凛とした気高さを感じた。大人になっていく子どもたち(少なくとも、電車の料金は確実に)。
それに。
やはり、来年度への狼煙も上がっていることにも気づく。いいじゃないか。勝ち戦だ!声を上げていこう!!
というわけで、サイゼリヤで一人ビールを飲む。