子どもたちに経験をゲットさせることが大切だろうと思う。知れば、使える可能性がある。知らないことを生み出して使うのは難しいだろう。難しいに決まっているよな。
だから、恐らく、学校は「教えて選ばせる」の繰り返しになると思う。その選出の趣味嗜好が個性になる。
人のつながりは、そのループかもとも思う。
教わって、選んでいるだけ。豊富な、豊潤な、潤沢な、選択肢をもって、そこから、時と場合に合った適当な選択ができると良い。
そして、その選択肢や選択力を別の事象にもあてがうひらめきを育む。たぶん、そんくらいを目指すので、とりあえずはいいような気がする。それ以上の高度なことを仕掛けられない。考える頭がない(ような気がする)。
金曜日は、クライシスを感じたのだけれど、今日はそんなことはなかった。今までで一番いい月曜日だった。
これまで、支援や低学年で言ってきて当たりだったような指導を自分を信じて再放送すればいいのだ。それが、今回も良かったように思う。話を聴くためのお願いをした。
出会いのときからしていたお願いは
- おへそを向ける
- 手は空っぽ
である。
そして、新たにしたのが
- 一人ずつ話すこと
- 誰かが話しているときは待つこと
これをお願いした。
さらに「ステレオゲーム」を2問やって「同時は本当に聞かないのよ、失礼しちゃうのも悲しいから、一人ずつ話してね」と言った。
刺さった。良かった。
「月曜の始め」というのもよかったと思う。大変にいいところで、刺したなと思う。
おそらく低学年ほど、月曜には、それなりに生まれ変わって来ている。先週あったことなんて、なんのそのである。
総じて、言いたいのは、いつでも希望はあって、現状を打破ないし打開する選択肢はあるのではないか、ということだ。それを把握できていないときも当然ある。というか、その方が多いだろう。しかし、何かしらの懸念に対する、何かしらの対応策や対処法はある。眠っている。漂っている。浮遊している。と思う。だから、そんなに自分を責めずに、また、不安になりすぎずに、人々は明日を迎えていいのではないか、というようなことが言いたい。