今週は、本当に「いい日だ」という日しかない。
年度のはじめからこういうクラスを作れる人は一年中この仕事が楽しいのだろうな。
そうなれたら最高だわ。
日案
理由の一つに「日案」の効果があるかもしれない。
働きすぎが起こらない。
すべきタスクのみ行えている。
明日への引き継ぎが容易である。
週案では、そこに示せる情報量が足りていなかったのだ。
些細ことも記録しやすい。
この本で見た17時に帰れるようにその日のタスクを設計して、新しく入った仕事は翌日に回すという教えも生きている。
おかげで出るべき時間に退勤できている。
休み時間は、ドロケイとドッジボールができている。
休み時間にも予定が書けるので、児童との約束を書いておけるし、授業準備があれば断れる。
予定で動いていることが子どもにも伝わっているようである。
というわけで、日案万歳。
テンポ
授業のテンポに課題があると思っていた。野中さんの本にも「テンポとリズム」というのがよく書かれているのだけど、具体的にどういうことなのかがよく分かっていなかった。本当は達人たちの授業を見に行けばいいのだろうけれど、それもなかなかかなわず(コロナのせい?いやいややる気がないだけです)、また本を頼ることにした。読んでると、まだまだ改善できそうなところが見つかったので、まずそこを変えてみることにする。そうして、テンポを感じられるようになったらそれでいいなあ。
ポイントは、「学校は毎日ある」という感覚かな、と思う。
私の悪い癖は、挙手に応じすぎてしまうというところで、その時の「言いたさ」を大切にしたくなってしまうことがテンポを悪くしていると思った。
だから、基本的には、「今日指されなくて活躍できなくても、明日活躍できる」でいいのだ。
私が気をつけはじめてみたことは
- 30秒以上の説明になっていないか気にかける
- 挙手は3名程度で切るときは切る
- 授業のパーツをもう一度見直す
これらで、多少テンポが(無駄のない時間が)生まれているように感じた。
授業のパーツというのは、算数だったら「常時活動、例題、練習問題、確かめ問題」というように概ね4つくらいのパーツしかなく、それにどう時間配分するかがテンポについての課題である。この4つをしっかりやろうとすると、長い説明や何人もの挙手に対応することができない。
「ここまでやりたい」が先にあって、そこに子どもたちには乗っかってもらうということをネタバレ的に言ってしまった方がいいのかもしれない。その関係で、全員がいつも言えるわけではない、ということを。もちろん思考を出し合ったり、思いや考えを知らせ合ったりする授業なら、それ用に時間を確保するということだ(というか、逆に今まで授業をどう設計して、どう進めてたんだよってね。すみません。よく分かっていなかったのだと思います)。
子どもの様子
3学期に入って、終わり感みたいなのがあるのか、「人がいい」みたいな子どもたちが多くなってきている。
そして「いいなあ」と思うのは、「いい人」を無理強いはしてきていないので、無理がなく「いい人」をやってくれているよなあ、というところだ。
自分たちで考えたクラス目標に「やさしさ」についての言葉があり、それを目指したいと思ってくれているのだと感じる。
一人一役で役割を果たしたり、トラブルの解決だったり、やり直したり、謝ったり許したり、一緒に遊んだり、ほめたり認めたり、受け入れたり、助けたりが強いられるではなく(雰囲気には煽られているかもしれないが)、当然の営みとして起こっているように見える。
こちらの心の持ち様としても、「伸びない」ではなく、「成果」が感じられているので、一安心というのもある。
- 思いや考えを書けなかった子が書けるようになった。(そのためには文字を読める必要があることを改めて理解した)
- 遠くにいた子が近くにいるようになった。自分ができたことをみんなに見てほしいと言ってきた。そしてみんなに称賛された。(私は通常級で特別支援をやっていただけだった。自分で自分の在り方をほめたい気分だ)
- ふと男女混じって遊んでいること(今まで教室にいた子が、何かに触発されて外で走り回っていた)
- リーダーだからと世話を焼ける子(指示している場面もあり、そんなことできるようになったんだと思った。関係性が近いづいたのだと感じた)
- 一番文句を言う子が、一番私を気遣ってくれて、一番自信がなさそうだったけど、挙手するようになった(鼻につく部分を容認してきてよかった)
- 朝泣きがちだった子が「学校は最初こわいと思ったけど、ずっと行ってると楽しくなる」と言ってくれたこと。その子の笑顔を見ない日はないのが嬉しい
- 板書しておいたら時間通りに動いてくれる子。ぴったりに来て驚いた(もちろん、全員がではないが)
- 自分には嫌なことしかないというのが口癖だった子が「まだ良いこともあるかもしれない」と自分に言えるようになった子
いろんな日があること。
待つこと。
リフレームや捉え直しのくさびを打つこと。
教師以上の学びは起こらない。
言葉遣いが気になる。
通常級の中のUDや特別支援教育は、「誰もが同じようにできるため」のものではない。
その子が居られるようにし、少しでもその子が参加しやすくするためのものだ。なので、「できる」を追うと、こちらは消耗していくかもしれない。やる力はあっても、できないというより、やらない。やれない。と、いうのがある。