現実は「こうである」という主観的な「観念」と実際には例外のある「流動性」のある現実がある。という話を聞いた。
「べき」が邪魔である。
学校は、受け皿ができていようがいまいが、指導すべきことを投げる(本当はそれじゃならないのだろうけど)。そのシステムが、学習意欲を削いでいるように思った。理由は、放課後にその子のペースで教えるとやるからである。ただし、その援助を全体を進めていく中で施すことが、私にはできない。
そこで、『学び合い』って話に行ったりするのだろうな。もう、そういう理念で、そういう仕組みでってことでないと、効率的に限られた時数の中でCの子を拾えないんだなあ。横のつながりの承認が欲しい時代だと思うし、学級経営的にも、一石四鳥ぐらいある考え方なのだろうな。『学び合い』は。
ただ、だからといって、じゃあ『学び合い』でって邁進できる環境でもないので(コロナかつ自分の勉強不足)、まあ、策を練る。
本当は、閾値でないことを指導してゲンナリさせるよりは(私もゲンナリ)、その子に合った然るべき行程を踏んで楽しめた方が良いよなあ。閾値でないから、頭の中が追いつかず、追いつけず、楽しめないということがあるわけだ。
そんな、教育課程だから、育つものも半端にしか育たないような気がする。バラバラと一年間の中でいろいろな子の諸々が育ったり、育たなかったりするのだろうけど。
ねらって教育活動をするも、それはある程度の子にある程度までしか作用できないのだろうなあ。どうしたって、日常の中で、30数人の進度を掴んだ授業を、一人ではできませぬ。非日常でも無理かあ。
学校アンケートで「授業があまり楽しくない」がいくつかあって衝撃だった日。
楽しい授業ってなんやねーん!!
わかる・できるなんだろうけど!!
無理やねーん!!
せやろがい!!